「東海村jco臨界事故」を検索してはいけない衝撃の理由を写真付きで解説!

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「東海村jco臨界事故」は、日本史上最悪と言われた事故です。

日本で初めて、原子力事故による被爆で死者を出しました。

検索してはいけない衝撃の理由とは!?写真付きで解説していきます。

世界中で脱原発、原子力に代わるエネルギーをと呼びかけられている今、自国で過去にどのような事故が起き、どれほどの被害に及んだのかきちんと知り得ることが大切と言えるでしょう。

目次

検索してはいけない「東海村jco臨界事故」とは?

「東海村jco臨界事故」を検索してはいけないと言われる理由は?

実際、検索してみると、この事故で被曝された方々の画像が複数出てきます。

それは、とても悲惨で目を覆いたくなるものばかりで、本当に同じ人間がこのような姿になってしまうのか、加工された写真ではないのかと疑ってしまうほどです。

それらの画像を閲覧することにより、パニックを起こす方もいらしゃるかもしれませんので、そういった意味で「検索してはいけない」と注意喚起をしておきます。

放射能は色も形も目に見えず、無味無臭です。

被爆した箇所も最初は変わりなく、気付くことが出来ません。

しかし、皮膚は徐々に壊死し、皮下組織の細胞も血液も内臓も、時間をかけてゆっくりと確実に破壊されていき、助かるすべも、救う手立てもありません。

確実に、死に向かって、苦しみながら朽ちていくのです。

この事故は、放射能が人間にとってどれだけ被害を与えるのか、人間をどのように変えていくのか、放射能の恐ろしさを身近に教えてくれたのかもしれません。

東海村jco事件の概要は?

「東海村jco事件」は、1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村にある住友金属鉱山の子会社、核燃料加工施設「JCO」が起こした原子力事故(臨界事故)です。

その日の午前10時35分、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が起きました。

その後、大量の放射線や熱が発生し続ける状態が20時間以上も続いたのです。

至近距離で放射能を浴びた作業員3名中2名が死亡し、1名が重症、さらに事故の収束に当たった従業員や救急隊員、施設の近隣住民等、667名の被爆者を出す、日本史上最悪の臨界事故でした。

東海村jco事件の生存者はいる?

事故発生時、作業に当たっていた3名(大内久さん、篠原理人さん、横川豊さん)が、大量の放射線を浴びた被爆者となりました。

大内さん(当時35歳)は、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込むための漏斗を支えていました。

大内さんは、放射線量16~20シーベルト以上を浴びたとされています。

私たちが生活をしていて自然に浴びている放射線量は、年間2.4ミリシーベルトです。

人間が一度に7シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100%とされており、大内さんは通常生活の年間被爆量の8000倍以上を一度に浴びたことになります。

大内さんは、中性子線によって体内の染色体を破壊され、新しい皮膚も細胞も生成されず、事故から83日後に亡くなられました。

篠原さん(当時39歳)は、バケツで硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込む作業をしていました。

被爆量は、推定6~10シーベルトとされており、大内さんよりは少ないですが、致死量の放射線を浴びています。

そのため、感染症から肺炎、そして多臓器不全を起こし、臨界事故から211日後に亡くなられました。

横川さん(当時54歳)は、事故当時隣の部屋にいたため、浴びた放射線量は3シーベルト程度と推定されています。

一時的に白血球がゼロになりましたが治療の成果が出て回復し、事故から約3か月後に退院した、唯一の生存者です。

検索してはいけない「東海村jcoの臨界事故」の原因とは?

では、なぜ「東海村jcoの臨界事故」は発生したのでしょうか?

事故の原因とは?JCOの管理体制は?

徹底調査していきます!!

原因①裏マニュアル

JCOには臨界(=原子核分裂の連鎖反応が一定の割合で継続して起こる)を防ぐための国の管理規定に沿った正規のマニュアルがありました。

しかし、実際の作業が行われていたのは、作業効率・作業時間短縮を重視した裏マニュアルです。

しかも、臨界事故発生時は裏マニュアルすら守られず、臨界に達しやすい形の容器(沈殿槽)に硝酸ウラニル溶液を流し込んだそうで、この作業は事故当日に、被爆者3人が考え出し初めて行ったということです。

普通に考えて、ウランを手作業でステンレスバケツで注ぐなんて、危険極まりないことであり、考えられませんが、実際にこのやり方で行われていたのです。

しかも、作業をしていた大内久さんと篠原理人さんはその危険性・臨界が起こるリスクを全く理解していなかったそうです

放射性物質のリスクを把握していない作業員を業務に携わせるなんて、ありえないことであり、JCOの管理体制があまりにもずさんであったと言えるでしょう。

原因②3人の被爆者の作業方法


JCOは燃料加工の工程で、
原料であるウラン化合物の粉末を溶解させるために、正規マニュアルならば「溶解塔」という装置を用いなければならないところを、裏マニュアルではステンレス製のバケツで溶解させるという手順でした。

事故当日は、この裏マニュアルをさらに改悪した手順で作業が進められてしまったのです。

具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らぬよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使わなければならないところを、作業の効率化のために、別の背丈が低く内径の広い冷却水のジャケットに包まれた沈殿槽を使って、作業工程が進められていたのです。

原因③jcoの管理不足

この臨界事故で、業務上過失致死などの罪に問われた当時の事業所長越島建三被告ら6人と、法人JCO(稲見智之社長)に対する判決公判が、水戸地裁で行われました。

鈴木秀行裁判長は、長年に渡るずさんなJCOの安全管理責任を批判し、越島被告に禁固3年、執行猶予5年、罰金50万円(求刑禁固4年、罰金50万円)の判決を言い渡しました。

JCOは原子炉等規制法違反および労働安全衛生法違反の罪で罰金刑となり、また、被害者への賠償額は約154億円になっています。

このことから、JCOの国の許可から逸脱した違法作業や、臨界事故を想定しないままの安全軽視の操業実態が次々と明らかになりました。

同裁判長は、「事故により2人が死亡したばかりか、社会に与えた衝撃はきわめて大きく、原子力の安全性に対する国民の信頼が大きく揺らいだ」と指摘しました。

また、「事故を引き起こした背景には、長年にわたるずさんな安全管理体制があった」と述べ、臨界事故の「教育訓練はほとんど実施されておらずきわめて悪質」、「安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない」と批判しました。

公判で被告側は、国の監督が不十分だったなどとして情状酌量を要求、判決は被告らの刑事責任を重大だとしながら、同社の歴代の幹部にも責任の一端があり、被告らだけが事故に寄与したとはいえないとして執行猶予を付けました。

【閲覧注意】大内さんの被曝写真は本物?

大内さんは、事故直後の時点では生存者として健康な姿を見せていました。

当初は意識もあり、臨界が起こった際「青い光を見た」と言っています。

日焼けのように赤くなった皮膚と腫れた手以外は、全く異変が見当たらなかったため、生存者として扱われました。

上記は、事故後の当日の写真ですが、ここから徐々に染色体が破壊され、大内さんの体は、白血球の数が急激に減少しウィルスや細菌に感染しやすくなってしまったのです。

やがて皮膚の再生ができなくなり、ボロボロと剥がれ落ちていきました。


それだけではなく肺に水がたまり呼吸が困難になっていったり、
腸内の粘膜が白く変色して垂れ下がり、大量の下痢も始まります。

一日に3リットルもの下痢で、大内氏はどんどん衰弱していき、腸内で出血の症状がみられるようになりました。

粘液が、はがれたところから染み出した血液があふれていたのです。

出血の症状への対策のため、輸血が一日に10回以上も行われる日もありました。

皮膚の失われたところから血液や体の水分がしみ出していき、その症状のためにガーゼで体のほとんどを覆わなければならなくなりました。


治療が始まって59日目、午前七時頃に突然大内さんの心臓が停止しました。

医師が蘇生処置を行うと、いったん動き始めたものの再び停止、動いては止まり、が三度繰り返され、何度も心臓マッサージと強心剤の投与が行われます。

心臓が止まったならもうこのまま楽にしてあげたい、と家族なら思うでしょう。

しかし、大内さんは家族の呼びかけにも答えることができず、機械と薬によって生かされていたのです。

大内さんは、国内初の臨界事故により大量の放射線を浴びた人体として、モルモットのように実験・観察対象として扱われたのでしょうか。

これが、被爆した大内さんの、事故から83日後に亡くなるまでの本当の姿です。

大内さんの被曝写真は本物?偽物?

大内さんが、事故後どのように変化していくのか残された写真で確認することが出来ます。

大内さんは、中性子線を浴びたことにより、染色体が破壊され、細胞が生成されない体になってしまいました。

それにより、放射能によって焼けただれた皮膚は剥がれ落ち、新しい皮膚が作られないため皮下組織の体液や血液が漏れ出てしまうのです。

この画像は、摩擦を減らし、少しでも皮膚が剥がれ落ちないようにするために、手足を吊るされているのです。

人間がこのような姿になるなんてと信じがたいかもしれませんが、作られた写真でも偽物でもなく、大内さんは至近距離で大量の放射線を浴びたことにより、83日間苦しんで亡くなっていったのです。

大内さんの「俺はモルモットじゃない」発言

事故後、被爆者たちは、千葉市の放射線医学総合研究所へ搬送されました。

中心となって治療を行ったのは、当時東京大学医学部の教授であった前川和彦医師でした。

「一日一日、驚きの変化でした。

血液の液体成分が血管の外に出て失われ、体がむくむ。

肺に水がたまり、酸素の取り込みが悪くなって、4日目ごろ、昼夜逆転の不穏状態に。

採血され、胃の検査をされ、『モルモットみたいね』という発言が大内さんから出てきました。

でも、話をしたのは最初の3~4日くらい。

その後は人工呼吸管理が必要となり、持続的に鎮静薬を投与し、意識をなくしました」

引用:yahoo!ニュース 2019年3月12日配信

大内さん、篠原さんの治療について、前川医師は「海図のない船出」だったと語っています。

誰もが見たことがない身体の変化に、連日向き合いました。

当時の心境について、

被ばく医療の限界を目の当たりにすることとなりました。

いまは、無力感に苛まれ、かなわぬ戦に挑んだドン・キホーテのような気もしています。

何とか助けたいと願い、手を尽くしても尽くしても日々悪化していく大内さんの姿に自身の無力さを感じたことでしょう。

最後は本当に筆舌に尽くしがたい様子であったと、前川医師は悔しさと無念さを述べました。

大内さん、篠原さんは、被爆後のデータを取るため医学の発展のために、生かされていた状態だったと言われていますが、前川医師ら現場の医師・看護師たちは、お2人の回復を祈って、治療に当たっていたことが語られた言葉から感じ取れます。

東海村jco臨界事故が理由でポケモンが放送禁止になった説?

ポケットモンスターは、1996年2月27日にゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター 赤・緑」が発売されたことが原点です。

これが小学生を中心に、口コミから火が付き大ヒットとなりました。

その後、アニメ化、1997年4月1日テレビ東京からテレビ放送されました。

東海村jco臨界事故が起こった当日、ポケットモンスターの放送日でしたが、放送が中止となりました。

放送禁止となった理由は何でしょうか?探ってみましょう。

東海村jco臨界事故当日にポケモン放送禁止?

当日の放送回が、「ポケットモンスター 赤・緑」のゲームに沿って行くと「カントー地方」の「むじんはつでんしょ」での話ではないか、もしくは臨界事故を連想させるような話ではないかと言われています。

「むじんはつでんしょ」は、まさに東海発電所(茨城県那珂郡東海村)が舞台となっています。

そのため、放送が禁止となったのでしょう。

その日の夜『ポケットモンスター』が放送する予定だったが、映像表現の関係で休止しとありましたが、 何の話を放送する予定だったのですか?

 

ベストアンサー

引用:yahoo!知恵袋

以前にもポケモンは活動を休止したことがある?

1997年12月16日に放送された第38話「でんのうせんしポリゴン」で、ストロボフラッシングなどの激しい点滅を断続的に見たことにより、視聴者が光過敏性発作を起こした事件です。

この回ではコンピュータの世界を表現するため、ワクチンソフトによる攻撃シーンや、破損したデータを修復するシーンにチカチカとストロボやフラッシングなどの激しい点滅が多用されていました。

後にテレビ東京が配布した報告書「アニメ『ポケットモンスター』問題に関する記録」によると、25箇所にわたって1秒間以上連続して点滅を使用しており、特に番組後半はこれらが連続して使用されていました。

特に顕著だったのが、ピカチュウの技「10まんボルト」がワクチンソフトのミサイルに当たる場面でした。

「アニメ『ポケットモンスター』問題に関する記録」では、各局の同時ネットにより、345万人の視聴者(4 – 12歳)が見ていたと推定しています。

この回の放送直後、視聴者の一部が体調不良を訴え、病院に搬送されました。

病院に搬送された患者の多くは児童だったと言います。

この事件の影響で、ポケモンの放送は4カ月の間休止されました。

 

大内久の家族とは?

大内久さんには、当時、奥さんと小学三年生になる息子さんがいました。

息子さんの小学校入学にあわせて家を新築し、家族三人で暮らしていました。

一日一箱のたばこを吸い、仕事の後は焼酎の水割りを二杯ほど飲んで寝るのが日課だったようです。

平穏で安定した幸せを、臨界事故が一変させてしまうことになりました。

唯一の生存者「横川豊」さんの現在とは?

横川豊さん(2005年当時60歳)は、2005年には毎日新聞の取材に答えています。

事故当時、大内さん、篠原さんと一緒に作業を担当していた横川豊さんは、薄い壁1枚を隔てた隣室にいました。

1999年9月30日午前10時35分頃、デスク作業を始めようとしていた横川さんは、「バシッ」と鋭い音を聞くと同時に、開けていたドアが青白く光ったのを目撃したそうです。

隣の部屋では、大内さんと篠原さんが沈殿槽にバケツでウラニウム溶液を入れる混合作業中でした。

臨界警報が鳴り、横川さんは、部屋から出てきた大内さんと篠原さんに「臨界だ。すぐ外に出ろ。」と叫びました。

その後、急性放射線症候群として、千葉市の放射線医学総合研究所にヘリコプターで運ばれました。

隣り合ったベッドの上で大内さんと言葉を交わした。

「久、頑張れよ」「横さんも」

それが最後の会話になった。

99年12月に大内さん、翌年4月には篠原さんが亡くなった。

「独りぼっちになった感じ。話したことに相づちを打ってくれる人がいなくなった。」

たった一人、「臨界の体験者」として生きる重さと孤独がのしかかった。

引用:毎日新聞「JCO臨界事故 唯一の生存者語る」2005年9月30日

一時は重篤な状態になりましたが、治療の末、横川さんは事故からおよそ3か月後に退院しています。

2005年には、取材のインタビューに答えていた横川さんですが、現在はどこでどのような生活を送っているのでしょうか?

取材を断った?

横川さんは、現在は70歳を過ぎ、関東で暮らしているようです。

毎日新聞の取材班が、手紙を出しその後電話で取材を申し込むと、「以前は答えていたんだけど、もう頭もさえとらんし」と断られたとのこと。

事故から6年目に応じた取材では、「事故原因は『無知』だった」「ウランが液状なら、大量に沈殿槽に入れても大丈夫と思い込んでいた」と語っていました。

原子力をめぐる国内の議論が進むことを望んでいることでしょう。

地元の方が当時について話す?

1999年9月30日当時、東海村の村長であった村上達也さんは、事故直後のことをこう振り返っています。

午後2時過ぎ、JCOの社員2人が災害対策本部に真っ青な顔をして飛び込んできたといいます。

手には、現場から350メートルの範囲にマジックで線を引いた地図がありました。

「住民を避難させてほしい。」

原子力事故で住民を避難させた前例はないため、村上さんはためらったそうです。

村上さんは「避難させたら『原子力は怖いもの』と住民に思わせてしまい、原子力推進の妨げになるのではないか。

村はパニックにもなってしまう。

約50もの世帯をどう避難させるか、技術的なことも検討しなければいけない。」と考えたと言います。

しかし、その頃JCOの社員は、事故現場により近い東海村の住民より先に避難を済ませていました。

住民の避難を最前線で担う「輸送班」を立ち上げ、避難対象約50世帯を1軒ずつ回って避難させました。

 

後に、避難要請に奔走していた村の職員が、JCOの核燃料加工施設から100メートルも離れていない場所で、推定4.8ミリシーベルトの被ばく線量だったということが判明しています。

茨城県では、東海村の総合福祉センター「絆」及び日立市久慈交流センターで、「安定ヨウ素剤配布会」が定期的に行われています。

原子力事故による甲状腺の内部被爆を予防・低減するために、臨界事故後に、村で備蓄が始まったのです。

住民は、

「ここに住んでいる人もいるし、企業も安全性を確認してやっていると思う。

でも、いざとなったら仕方ない。

絶対安全ということはないので、ある程度のリスクは承知の上で暮らしていくしかない。

安定ヨウ素剤を無料で配ってくれるのは助かる。」

と、答えています。

原子力を受け入れ、原子力と共に生きる道を見据えているようです。

東海村jco臨界事故では決死隊が結成された?

「東海村jco臨界事故」が起きた後に、JOCの社員の中から臨界を止めるための18名の「決死隊」が結成されました。

彼らは、放射線を浴びながらも作業に当たったのだといいます。

上司から「嫌なら断ることもできる」と言われたそうですが、「決死隊」のメンバーは誰一人断ることはなく、「自分の会社が起こした事故だから当然だ」と作業にあたったといいます。

「決死隊」の中には、作業中に119ミリシーベルトの被曝をしたメンバーもいたそうですが、1人あたりの作業時間は3分程度と健康には問題なかったようです。

しかし、生死を伴う中での作業は、それはそれは長く感じたことでしょう、「決死隊」の1人だった男性は「(当時は)思うように手が動かず、生きた心地がしなかった」と後に語っています。

東海村臨界事故 決死隊

福島第一原発よりはましだった?


「決死隊」として作業をした方の中には、東日本大震災により発生した福島第一原発事故が「東海村jco臨界事故」と重なる方もいたようです。

福島第一原発事故では、東京の足立区等、健康被害を及ぼすほどではありませんが遠く離れた地域でも放射線量が観測され、影響は広範囲に及んでいました。

「決死隊」の1人であったある男性は、2011年に起きた東日本大震災での「福島第一原発事故」について、「私たちの事故よりはるかに深刻」としていました。

 

「東海村jco臨界事故」を検索してはいけない衝撃の理由を写真付きで解説!のまとめ

「東海村jco臨界事故」は、JCOのずさんな管理体制により、ウランの危険性について指導されていなかった社員3名が、作業効率を重視するよう作られた裏マニュアルから、さらに危険とされる作業方法で行った結果、発生した臨界事故です。

作業員3名のうち2名は、染色体破壊、多器臓不全等により、長い間苦しみながら人間としての形を失い亡くなっていた、悲しくいたたまれない事故です。

この事故の、被害者は、全部で667名とも言われています。

私たちはこの事故を風化させることのないよう、決して忘れてはいけないでしょう。

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