日本では熊による事件がたびたび起こっていて、ニュースで流れることもあります。
これまでに起こった熊に関する事件で特に被害が大きかったものが4件あり、そのうちの1件が三毛別羆事件です。
三毛別羆事件は日本で起こった熊に関する事件で最悪のものとされていて、多くの教訓が残されました
では、その三毛別羆事件とはどのような事件だったのでしょうか?
悲惨な三毛別羆事件とは?
三毛別羆事件は日本で起こった熊に関する事件の中でも最悪のものと言われています。
では、その三毛別羆事件とはどのような事件だったのでしょうか?
まずは時系列順に事件の流れを確認していきましょう。
ヒグマの目撃
三毛別羆事件は北海道の苫前郡苫前村三毛別で起こった事件です。
地名から三毛別羆事件と呼ばれています。
ただし、現在の地名は苫前町三渓に変わっています。
事件の始まりは1915年の11月上旬でした。
ヒグマが集落に現れて、トウモロシ畑が被害に遭いました。
人への被害はなかったものの、その危険性から猟師に対策依頼が出されます。
11月30日にヒグマは姿を現しましたが、仕留めることはできず、怪我を負わせただけで逃げられてしまいました。
最初の被害
12月9日にヒグマが姿を現し、1軒の家を襲いました。
被害に遭ったのその家の内縁の妻であった女性と当時6歳の子供でした。
子供の側頭部には大きな穴が空いており、発見時にはすでに亡くなっていたそうです。
女性はヒグマに連れて行かれてしまいました。
発見時の時刻は日没頃であったことから、追跡は翌日に持ち越されることとなりました。
被害の翌日
最初の被害が起こったその翌日、捜索が始められました。
捜索隊はヒグマを発見しますが、至近距離で急に出くわしてしまいます。
慌てて銃を発砲するも弾は命中せず、ヒグマはその場から逃走してしまいます。
ヒグマのいた場所を調べると、昨日に連れ去られた女性の遺体が発見されました。
ただし、遺体は脚と頭部の一部のみだったそうです。
通夜への乱入
女性の遺体が発見されたその日の夜に、被害に遭った女性と子供の通夜が行われました。
しかし、ヒグマは自分の獲物に対する執着心が強いため、女性の遺体を取り戻そうとして通夜の会場に乱入してきます。
会場は大パニックとなりましたが、銃が発砲されると再びヒグマは逃げて行きました。
続く被害
通夜会場から逃げたヒグマは山には帰らず、500mほど離れた別の家を襲います。
その家には大人と子供を合わせて11人いて、そのうちの1人は妊婦でした。
この襲撃によって、4人が亡くなり、3人が重傷を負いました。
亡くなった被害者の中には妊婦も含まれており、胎児も亡くなる結果となります。
このとき、奇跡的に生き残り、命が助かった人の話では亡くなった妊婦は「腹破らんでくれ!」と叫び、必死に胎児を守ろうとしたそうです。
現場に駆けつけた男性たちが発砲しますが、ここでも仕留めることはできず、ヒグマは裏山へと逃げて行きました。
ヒグマを誘い出す作戦
その後、ヒグマの捜索が警察の討伐隊によって行われましたが、なかなか見つけることはできませんでした。
そこで、ヒグマの獲物に執着する習性を利用して、被害に遭った遺体でヒグマを誘い出す作戦が提案されます。
実際にヒグマに襲われ、奇跡的に生き残り、その恐ろしさを理解している遺族や住民はこの作戦を承諾します。
家に遺体を戻すと、ヒグマは再び姿を現しました。
しかし、警戒を強めているためか、家の周りをうろつきするものの結局は森へと帰って行き、またもや仕留めることはできませんでした。
ついにヒグマが仕留められる
5人の命が奪われた事件から3日後、住民たちは避難をして村は無人となっていました。
ただし、討伐隊や猟師などが数十人体制で張り込んでいました。
そこへヒグマが姿を現わすと、1人の猟師がそれを発見し、発砲しますが仕留められずに逃げられてしまいます。
また、その後に討伐隊が怪しい影を見つけて発砲しますが、これも仕留めるには至りませんでした。
しかし、その翌日にヒグマの足跡と先の発砲による血痕が見つかり、追跡が行われます。
そして、討伐隊の1人がヒグマを発見し、2発の弾を命中させ、ついにヒグマは仕留められました。
その大きさは体長が2.5m、体重が340kgもある大きなヒグマだったそうです。
三毛別羆事件の後はどうなった?
事件を起こしたヒグマは仕留められましたが、多くの犠牲者を出すこととなりました。
悲惨な結果となった三毛別羆事件ですが、その事件後はどのようになったのでしょうか?
郷土資料館にて事件を伝える
三毛別羆事件は悲惨な事件であり、ヒグマに対する教訓が多く残された事件でもあります。
そのため、その事件のことを忘れないように、苫前町には昭和3年に村の役場を利用して資料館が作られました。
館内にはヒグマの剥製や事件の現地写真などの資料で、三毛別羆事件のことが詳しくわかるようになっています。
事件現場は復元地となっている
資料館の剥製や写真などでも三毛別羆事件のことはよくわかります。
しかし、1990年には「より深く事件のことを知ってもらいたい」という近辺の住民の要望によって、事件現場は復元地となりました。
復元地には石碑や復元された小屋などがあります。
また、小屋を襲ったヒグマも実物大模型として再現されていています。
その迫力は写真で見るよりもその恐ろしさがよく理解できることでしょう。
ただし、復元地に向かう途中にヒグマの目撃情報に関する看板が立っています。
復元地に向かって、本物のヒグマと出くわす危険性もあるので、熊除けの鈴や対策スプレーなどを持参することが望ましいでしょう。
もし、運悪く出会っても自己責任となるので注意が必要です。
ヒグマの遺体は行方不明
苫前町の資料館に剥製はありますが、それらは三毛別羆事件で人々を襲った実際のヒグマのものではありません。
三毛別羆事件で仕留められたヒグマの皮と頭骨は売却や譲渡され、行方不明となっています。
また、骨格は解剖後に放棄され、肉は食用とされたそうです。
そのため、三毛別羆事件を起こしたヒグマの剥製はありません。
4大ヒグマ事件の1つになる
三毛別羆事件は日本で起こった熊に関する最悪の事件とされていて、4大ヒグマ事件の1つとなっています。
他の3件は石狩沼田幌新事件・札幌丘珠事件・福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件です。
どれも多くの死傷者を出している悲惨な事件です。
三毛別羆事件以外の4大ヒグマ事件は?
三毛別羆事件は4大ヒグマ事件の1つであり、他にも3件の有名なヒグマ事件があります。
では、他の3件はどのような事件だったのでしょうか?
沼田幌新
石狩沼田幌新事件は1923年に起こった事件で、祭りからの帰宅途中の5名がヒグマに襲われました。
この襲撃で3人の命が奪われ、2名が奇跡的に生き残ります。
その後、ヒグマを仕留めようとした猟師1人と討伐隊1人が犠牲となり、最終的に5名の人が亡くなる事件となりました。
このヒグマは剥製にはなりませんでしたが、皮は沼田町郷土資料館で展示されています。
その大きさは体長1.9m、体重は200kgでした。
札幌丘珠
札幌丘珠事件は1878年に起こった事件で、熊を撃ちに行った猟師が逆に襲われて亡くなってしまいます。
猟師に攻撃されたヒグマは冬ごもりが中断され、食べ物を求めて町に出て行きます。
その際に1軒の家に侵入します。
家には4名の人がいて、そのうちの2名の命を奪い、2名が奇跡的に生き残りました。
そのうちの1名はまだ赤ちゃんでした。
札幌丘珠事件を起こしたヒグマは剥製にされ、北海道大学植物園博物館で保管されているそうです。
その大きさは体長1.9mでした。
福岡大ワンゲル
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件は1970年に起きた事件で、日高山脈を登っていた際に福岡大学の学生たちがヒグマに襲われてしまいました。
登山に参加していたのは5名で、そのうちの3名が命を落とし、2名が奇跡的に生き残りました。
ヒグマは仕留められた後、剥製にされ日高山脈山岳センターで保管されているそうです。
その大きさは体長1.3mでした。
三毛別羆事件や熊の剥製を見に行ってみよう
三毛別羆事件は熊に関する事件で最悪のものと言われています。
現地では資料館や復元地などがあり、事件のことを今でも詳しく知ることができます。
日本で起こった悲惨な事件の1つなので、詳しく知るためにこれらを訪れても良いでしょう。
また、三毛別羆事件以外にもヒグマの事件はあります。
中には事件を起こした実際のヒグマの剥製を見られるものもあります。
これらも事件の恐ろしさを知るために、見に行ってみましょう。